考えたい時、そして立ち止まりたい時に標にしている言葉たち
【向き合う先にあるもの】
生きているということは誰かに何かを感じさせる予感があるということ。
生きているために生きることは必要でないかもしれない。
ただひとたび生きることを決めたのなら、生きることを時の流れと取り違えぬよう常に自分自身に問い、こたえていく必要があるのであろう。
そして生きることを続けることが自分自身を形作ることに繋がるのではないだろうか。
— 生きている中で生きる
思考を重ねることで、人はとらえきれない自分の一片を集めていくのだろう。
その果てなく生じる一片を集め、自分を形作り続けていくことが思考することの意味なのかもしれない。
— 思考
人生に為すべき目的というのはないのかもしれない。
ただ為すべき目的はなくとも、人生に目的を与えることはできるのであり、そうすることで人生は意味あるものになる可能性を持ち続けるのではないだろうか。
— 目的がなくとも
選択を迫られた時には自分がその結果を考えて受け入れる事ができ、また最大限の可能性を生み出せるであろうものを選ぶ。
ただその見出せる選択肢は今の自分次第、見えないものを選択する事はできない。
だから新たな選択肢を見出す事は自分の可能性を拡げる事をまた意味している。
しかし見えていても選ぼうとしなければその先にある可能性もまたこれは無いも同然ではないか。
今の自分が選ぼうと思えない選択肢を選択肢の1つだと考えられるようになれば、それは新たな選択肢を見出すの同様に、今ある以上の可能性が確かに目の前に広がるはずである。
常に選択的でなければ選択する事ができない時がある。
他の選択肢が見えなければそれは選択肢がないと思う時同様に選ばざるを得ないものとなり、自分以外のものに選択を任せることになり得てしまうのではないだろうか。
— 選び取ること
互いの形作ってきた正しさが違えば、自分とは違う正しさを受容しようとするほどに、正しさの輪郭は不鮮明なものとなっていく。
その不鮮明な正しさが行き交う中で、正しさとは見せるものであるとするならば、非難するにとどまる正しさというのはあり得ないのではないだろうか。
— 何かを悪いと言えるのは
人の心は分からないものであるとしながら、それでも分かりたいと望み続けていく意志。
それが一時だけではなく常日頃から、そして他人だけではなく自分を信じるために必要なものなのではないだろうか。
— 人の心
何かになりたいと願った自分は誰かに何かを強いられた自分ではなかったはず。
だからこそ誰かに変化を望むのであれば、自分が理想を追う姿をその人の何かになりたいと思える意志に繋げようとするのが望ましいのかもしれない。
— 人に変化を望む
優しくあるということは想うことを含んでおり、自分以外のものを意識するからこそ優しくなれる。
だからこそ優しくあるためには自分ではないものに身を置きながら、自分以外のものを想える自分を持ち続ける厳しさも必要となるのではないだろうか。
— 人に優しく自分に厳しく
物事は常に意味付けが行われておらず、どういった意味付けをするのかは自分次第。
そう考えて自然と身についているものに対してまず意識を持ち、何も意味づけが行われていない状態にする。
そうしてから決めることでこそ、初めて物事は自分なりの意味を持つものとなるのだろう。
— 自らに問う意味
自分の心が向くものは他人にっとては心が向くものではないかもしれない。
またそれを他人が自らのものに手にしていることもあるだろう。
ただ心が向くものがなければ到達はありえず、自分が思う前へ進めるのなら、それだけで心が向くものには意味があるのではないだろうか。
— 心が向くもの
【言葉と人生を考える】
言葉とは与えられたものであり、同じようでありながら個々の言葉は異なっている。
故に、捉えきれない何かを感じながらも自分のものとして、一つの言葉を使っていることもあるのではないか。
その捉えきれない何かを求めて、人は形が定まらない言葉の意味を定めようとするのだろう。
ただ、言葉では表わしきることができない言葉は数多存在する。
だが一方で、その言葉は確かに使われてもいる。
その言葉の捉えられる部分は、個々のその言葉を使う思考がその言葉の一片となり、認められるものとなっている。
それ故、その形を知るためには明らかとなるまで与えられた言葉の形を作り続け、それを伝えていかねばならないのではないか。
そして、だからこそ言葉にどのような意味を加え分かつことができるか、そこに生きる意味が少なからずあるのではないかと感じられる。
— 言葉を遺す
言葉は一つの意味を持っているようでありながら、人と交わることで、人それぞれの意味を帯びていく。
どのような意味を持つかは自分次第。
曖昧なものを言葉にしてその一端を見出し続ければ、言葉は自分のものとなっていく。
— 言葉を形作る
言葉は思考を止めて受ければ虚となりやすく、またこちらが思考を働かせ受ければ実となり得ることもある。
その言葉には何が含まれているのか、それを知ろうという姿勢を失った時、言葉は全くの虚となるのだろう。
— 言葉の虚と実
言葉は与えられたものであり、それを共有してはいない。
言葉は意志を伝えうるが、そこに沁みた考えや思いこそが伝えられるものである。
そして、それらを自分の人生に受け容れられるかに言葉を知る価値とはあるのではないだろうか。
「言葉に沁みたもの」
その場限りでは意識しようともしていなくても、使う言葉に意味の違いが生じないこともあるかもしれない。
ただ人生という文脈で見れば、同じ言葉であってもその言葉には全く違った意味が付与され得る。
そのことを心に留めておけば、言葉はより真実となる可能性を帯びるのではないだろうか。
— 言葉に含まれるもの
【言葉と自分】
答えが用意されているものを除外するなら、「考える」という言葉を聞けば「答えが出るもの」について、「悩む」という言葉を聞けば「答えが出ないもの」について思いを巡らしているという印象を受ける。
ただここでの「答えが出るもの」そして「答えが出ないもの」という時の「答え」とはどのようなものか。
それはつまり「自分の心が決めるもの」だと思われる。
だから「自分が決める」という意志を持てば、「悩む」というのは起こらぬことではないのだろうか。
そうすれば全てのその過程が「考える」こととなるから。
しかし「考える」ことに偏れば、人は他人に対する過ちを犯すこともあるかもしれない。
感じず、考えただけの他人の気持ちとは結局、自分自身の考えに他ならないから。
「答えが出ないものもある」と他人の心を感じながら、考えること。
思考という言葉の一端はそこにあるのではないだろうか。
— 考えると悩む
孤独とは一人でいることを指すものなのだろうか。
自分にとって孤独とは他人との別離を経験した時から経験し続ける、自分との対話のことだと感じられる。
そして、孤独であればこそ、人は人を強く求められるのではないだろうか。
— 孤独
絶対的なものがないと思われる中で、多くの考えや空気に触れ、確信を持てると思えるものを見出し続けていく。
自らの哲学を持ち続けること、それが今を自らで生きることに繋がっていくのだろう。
— 晢を求める
言葉は自らの意思を伝えうる。
ただ、これを過信した時、言葉に捉えられない部分が生まれる。
言葉は意思を伝えうるものでありながら、それは共有しているものではない。
個々に言葉は与えられ、そこに個人の考えや思いが沁みている。
だからこそ、言葉とも対話を重ねなければない。
その対話がなければ言葉は自分を映さず、自分を映さない語らぬ言葉は他人に語りかけられない。
相手が伝えられたと感じたその意思も、隔りが曖昧さを生み出してしまうだろうから。
他人に自分の言葉を取り誤らせたくないならば、まずは言葉と対話すべきなのかもしれない。
— 自分を写す言葉
努力は自分の力を尽くし、過去の自分を疑わず、それが理想や未来に繋がっていると信じる限りにおいて努力になる。
そう考えれば、努力とは信じられる自分を積み重ねていくことでもあるのかもしれない。
— 努力
自分の行動が正しかったのかを考えた時に、そこに自分の意志がなければ、その時に人は他人から奪われて残って選択肢を無意識に取っているのかもしれない。
選ぶことができるが選ばない、これが偏らない見方に繋がるのではないだろうか。
— 偏見
感情は生じることを抑えることが能わぬものである。
ただ、理性を用いて感情と向き合うことはできるのであり、その理性と感情の対話の先にこそ、思考という自分の一片を見出すことができるのではないだろうか。
— 感情を考える
人が自分の決めた方向を善とする、それが心の中にあったとしても外発したとしても。
その善が他人のそれと対峙する時、それは正義でありそして悪にもなり得るかもしれない。
また自分で善を持つだけならば、それが人に干渉することはない。
ただ善を善としてとらえる場合に考えるべきは、善が外発しそれが相手のそれと対する時だろう。
何故ならその善が相手の善となり得るかを知り得はしないから。
自らが善だと思う事を為そうとするなら、その時は常にその善が偽善であるかもしれないという思いを抱えるべきであるかもしれない。
そうして考え抜くことでしか善は善となり得ないのではないだろうか。
— 善と偽善
望むものへと自分を信じ進んでいける力が自信であるはず。
そして望むにとどまり、その望みに向かおうとしない気持ちを慢心と呼ぶのかもしれない。
— 自信と慢心
自らの意志であろうとなかろうと理想を叶えた時、それが成功の瞬間となる。
ただ、成功とはその瞬間、もしくはその瞬間の継続を意味しているものではないと思われる。
何故なら、成功とは理想が叶えられているという状態も表すだろうから。
特に時に自らの意志ではなく理想が叶えられた時、それは次の成功への弊害ともなり得る。
より多くの理想の実現へと向かい続ける上で必要なのは、成功から次の成功に繋がる自らの意志を見出すことにあるのではないだろうか。
だからこそ、自らの意志で選択した結果としての成功にこそ意味があるのだろう。
— 成功
想像することで、ある物事が善にも悪にもなり、他人のことが自分のことのように感じられる。
点を繋ぐことで、次の心が動くものの像が結ばれていく。
幸福か不幸か何と結びつけるのかで、想像は先へと進む力になり得るのかどうかが決まるのかもしれない。
— 想像
全ての選択肢は言動で表わしえない。
だからこそ後悔はいつでも残り得る。
ただ、後悔とは選びとることができなかった選択肢から生じるものだろう。
残ったのではなく自分の意志で残す選択肢、選ぶことができるが選ばない選択肢。
それらからは後悔とは異なる意味が与えられうるものが生じるのではないだろうか。
多くの選択肢を用意できるように、そしてそれらを選ぶことができるように、後悔を残さぬようにするのであれば、自分の可能性を広げ続ける必要があるのかもしれない。
— 後悔
自分で言葉の本質と向き合うならば、喩えることは言葉の本質を曖昧にしてしまう。
異なる言葉の本質がその言葉に流れ込んできてしまうから。
喩えるということはその本質的に、伝えることに適しているのかもしれない。
— 喩える
自分を深めて答えを決めて、人と繋がりその答えで応えていく。
自分の答えがあればこそ、人は望む時に人と繋がることもできるようになるのではないだろうか。
— 答えと応え
自分の意思で決める、それも唯一のものを決めて貫くのではなく選び取り決めていくこと。
その繰り返しにより無意識とは形作られていくものなのではないだろうか。
— 意思と意意識
【日々感じ考えること】
人の心は分からなくても人と繋がれたと思う瞬間がある、それは思い込みかもしれないがそうだと堅く信じれる瞬間。
条件も感情も想いも違えば繋がれなかったかもしれない、瞬間で出会う真実、それらが自らへの、そして他人への疑いから覚ましてくれる。
自らを他人を信じれば信じた分、その瞬間に巡り合う事は多くなるのではないだろうか。
— 疑い得ぬ瞬間
憎むのが意志あるものであるならば、許し方を知ろうとしなければならない。
自ら決めることが生きることにつながるなら、憎しみながら生きることで意志を決めることはできないだろうから。
— 憎むことと生きること
選択するものとは、自らの意志で選び取るか、その他の選択に応じず除いたその結果に残るものではないか。
ただ、応じず除くのであっても、残った選択を選び取らなければ、それは自分を映すものとはなり得ないこともあるのだろう。
選択に応じず除くことにより、選択的ではない状況とは作り出されやすくなってしまうのかもしれない。
— 応と否
誰かがいることで堕ちたように感じることがあるかもしれない。
しかし、それは相手が自分を堕としたのではなく、自ら堕ちたのではないか。
ただ、堕ちることはあっても堕とさなければ、自分の心が向かいたい方へと進むことができる。
堕とすとは意識して下を向くこと、向かせることで、それは下を認めることに他ならないのではないだろうか。
下へいくことを望まぬのなら、下を認めることも意識的にはするべきではないのかもしれない。
— 堕ちると堕とす
不幸をうみ出すということは不幸を願い出るということ。
幸せだと感じるかもしれないものを自ら不幸と定め、意識ある不幸は形を与え続けられるのかもしれない。
— 不幸をうみ出す
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